ナナメなHIGOLOG

薬学生が日頃のアレコレや百合漫画のレビューをコソコソと書くブログです

【高2黒歴史公開】エゴイストの恋と愛、そして生き方(夏目漱石『こころ』読書感想文)

 

 

 高校2年生の夏休みのときに、夏目漱石の『こころ』を読んで読書感想文を書く」という課題が課されていました。

 

 

 高校2年生のとき、私は短い人生の中で最も厭世的でナナメに捻れていて、学校にまともに行っておらず、学校に行くフリして図書館に行って勉強したり、

昼休みとか帰りのLHRが終わってから登校して放課後に皆とゲーセンに行ったりと、

遅刻・欠席が非常に多く毎週のように生活指導室に呼ばれる高校生活を送っていました。

 

卒業するときに先生方から「毎朝職員会議のときに『最近のアイツは学校に来ているか』ということについて情報交換する時間があった」と言われたときは思わず笑ってしまいました。

どおりで関わったことがないような先生からも名前を覚えられていたんだなと納得した覚えがあります。

 

 

 そのときに、徹夜した深夜テンションで一晩で書き上げてしまった黒歴史を、ブログ1ヶ月記念という節目に公開して、この文章と捻くれた思考を昇華したいと思います。

 

これはパソコンの奥深くに眠っていたデータですが、たったの62分で書き上げたと思うと非常に恐ろしいですね・・・。

 

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 私はもう成人してますが、これから書かれている文章については若干の修正は加えているものの、

16歳の未熟で捻くれていた少年が1時間で書き殴ったことを念頭に置いて、暖かい目で見守ってあげてください。

 

 

 

 

 

人間=エゴイスト

 

 「恋は盲目」という言葉があるように、人間という生き物は『恋』という感情を抱くと周りが見えなくなってしまうことがある。

これはつまり、エゴイスティックな思考に陥っていることになる。

しかし、人間は果たして恋をしている時だけエゴイストに化けてしまうのだろうか。

そんなことはまず有り得ないだろう。

実際に作品の中では、先生は恋によるエゴだったが先生の叔父は遺産を前にして金によるエゴであった。

 

 私はこの作品を読んで、人間は常に他人からの見返りや、他人より多くの利潤や報酬、人間的価値、尊敬を求めているのだと思った。

人間はとにかく他者よりも優位な地位に立とうとする、狡く汚い生き物だと考えた。

事実、私は自分自身のことをそう思い、さらに他人のこともそう思っている。

人間は誰しもエゴイストである。

 

 では、エゴイストであることは、『悪』であるのだろうか。

作中で先生は「少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。」(上28)と言っており、私たち人間は普通だであることを示している。

つまり、エゴイストであることは普通、『正常』である。

しかし、エゴイスティックな思考は急に心の中に発現し、成長を遂げて人を悪人に変えてしまうのだ。

 

 

エゴイストの種類

 

 では世の中の人々が皆エゴイストとなり、それぞれの我欲を満たそうとしたらどうなるだろうか。

間違いなく世の中の均衡に偏りが生まれ、この世界は崩壊し人間は淘汰されるだろう。

今この世界は崩壊こそしていないが、一人一人の我欲によって小さな崩壊は生まれている。

 

 作中で、先生は我欲を満たそうとKを出し抜いてお嬢さんと婚約した結果、Kを自殺に追い込んでしまった。

Kは先生の婚約がなくとも、自分の信条に反したとして自殺をしていたかもしれない。

しかし、客観的な視点で世界を見ると、先生が我欲を満たしお嬢さんと結婚した結果Kが自殺した、という因果関係だけがその場に残っている。

そして、先生には生涯Kの影がつきまとうことになった。

この我欲を満たした結果、先生は自らの手で人生を崩壊へと導いてしまった。

つまり、我欲を満たそうとするエゴイストは、自分自身を崩壊の道へと進ませてしまうのだ。

 

 しかし、人間が皆このように崩壊の道へ足を踏み入れていたら、人間は間違いなく淘汰されてしまうだろう。

そこで人間には大きく分けて、我欲を満たそうと実際に行動を起こすエゴイストと、我欲を心の内に抱くも行動を起こさないエゴイスト、との両方が存在しているのだと考えた。

これらの違いは行動力の差によって生まれるのではなく、生み出されていく我欲に対する抑止力を持っているかの違いであると考えた。

つまり、人間としての理性が育てられているのか、ということである。

 

 エゴイスト、即ち人間に共通していることは『他罰的である』ということである。

何か失敗をすると、それを他人のせいにして他人を下に敷くことで、自分を優位に立たせることをする。

これは心の中でも他者を見下すことでも再現でき、どちらのエゴイストにも共通している。

では作中の登場人物はどのようなエゴイストであったのか。

 

 

『先生』というエゴイスト

 

 まず先生については、先生はエゴイズムの塊であるのは自明のことである。

そして、我欲を実行に移しているため、先ほどで言うところの前者のエゴイストとなる。

では、先生のエゴイスティックな思考について考えていこうと思う。

 

 作中で先生は「彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。」(下25)と言っていたように、Kを人間らしくしようとしていた。

しかし、Kはすでに自らの信条を確立しており、自分だけの世界を形成していた。

つまりKを人間らしくするということは、KをKではなくさせるということであった。

これは無論、先生のエゴである。

なぜかと言うと、まず先生は「常にKを畏敬していました。」(下19)とあるように、先生はKに強い尊敬を抱いていた。

さらに「私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があった」(下24)と言っていたことから、Kに対して完璧に落ち度を感じていた。

こうしたことから、先生には少なからずKに対する劣等感や嫉妬心が芽生えていたと思う。

その嫉妬心がKを堕としてやりたいと思わせてしまった。

 

 さらに「Kの心が、段々打ち解けて来る」(下25)というように、そんなKを見て先生は「自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかった」(下25)とあり、自分がしたエゴである行動に満足感を得ている様子が見て取れる。

そしてKがお嬢さんに対する恋心を打ち明けた後に「失策ったと思いました。先を越されたなと思いました。」(下36)と言っており、先生はどんなときでも自分のことを優先していたことが分かる。

 

 したがって先生は、自分より優位な人間の存在を認めないエゴイストなのだと考えた。

これはある種ナルシストではないかと考えた。

先生は自分が誰よりも一番上の存在だと信じているナルシシスティックな思考を持ち、他人より優位でありたかったエゴイストであったのだ。

 

 

『K』というエゴイスト

 

 続いてKについてだが、「自分で自分を破壊しつつ進みます。」(下24)とあるように、Kは極度の禁欲家である。

しかし、禁欲とエゴイズムとでは正反対に位置しているように思われる。

ではKはエゴイストではなかったのだろうか。

 

 Kは精進という言葉をモットーとしており、それは「道のためにはすべてを犠牲」「摂欲や禁欲」(下41)という意味であった。

しかし、先ほど述べたようにKは自分だけの世界を形成しその中で生きている人間である。

自らの信条や思考しかその世界に存在することを許さず、他人の物は受け入れようとはしない。

それらを睥睨したり軽蔑したりする。

 

 これはまさに『自己中心的』という言葉が適するのではないかと考えた。

Kは確かに勤勉ではあったが、自らを高めること以外には興味がなかったように見える。

それは、自分だけの世界で自分が孤高の存在でありたかった故であるのだと思った。

Kもまたナルシストであり、究極のエゴイストである。

 

 

恋とエゴ

 

 次に恋についてまとめていく。

先生は我欲が抑えられずKを出し抜いて婚約をしてしまう。

そんなことから恋とエゴは密接な関係にあると考えた。

先生が「恋は罪罰」(上12)と言っていたように、恋は罪と罰しかもたらさないのだろうか。

そこで、恋をエゴという観点から考えていった。

 

 恋という物を理解する上で主観的な意見を述べて整理していく。

まず恋と聞くと十代から二十代ぐらいの人がするというイメージがある。

そのような人達が青春などと称し、生活における一つの楽しみのためや、彼氏彼女を自分自身のある種のステータスと思って恋をしている人が多数見受けられる。

これは全て私利私欲のため、まさにエゴイスティックな思考であると言える。

 

 エゴである恋は相手のことなど考えていないため、当然軽い気持ちの関係であったり、自分の心の隙間を埋める友達以上の存在が欲しいという浅はかな理由であったりしている。

そのエゴは押しつけであり、さらに同等の見返りを求めている。

そしてこのようなことを双方が考えているため、互いに我欲を満たすための共依存の状態となっているのである。

 

 さらにこれは完全な持論であるが、女の人は相手のことを好きでいる自分に酔い、男の人は相手から好かれている自分に酔っていることが多いと思う。

そのため、共依存の状態から抜けることはできない。

結論として、恋とはエゴの塊であり、共依存の悪循環を生み出す罪な物であると考えた。

 

 

愛とエゴ

 

 では、恋と対となる『愛』もエゴであり、罪であるのでしょうか。

愛を考える上で参考が必要となるが、親から受けている物の1つが『愛』だと私は考え、それを踏まえた上で考察していく。

 

 まず愛と聞くと、若いというよりは大人であるイメージがある。

愛とは互いの意見を尊重し合い、相手に自分の全てを捧げ、相手に見返りは求めずに尽くしている、そんな風に考えた。

ここに多少なりとも人間のエゴが絡んでいたとしても、それを受容し合えるような関係だと思った。

愛にはエゴという濁りが混じっていない純粋な物である。

 

 愛とは、何度も恋を経験していく上で、人間のエゴや恋の共依存に気づき、人間の本質を理解し人として成熟した者が辿り着いて享受することができる神聖な物である。

即ち、愛は恋の上に成り立っている。

作中で先生は「恋は罪悪です(中略)そうして神聖なもの」(上13)と言っていた。

恋は愛という神聖な物を得るための、ある種の『通過儀礼』であって神聖な行為だと考えた。

そういった意味で、先生はこの言葉を言ったのではないかと推測した。

 

 

エゴイストとして生きる

 

 これまで私はエゴイストを悪い存在と見なし、恋という物をエゴの塊であるとして嫌っていた。

しかし、自分を含め人間を全てエゴイストとして見てみると、全ての事に対する受容できる心が生まれてくる。

人が皆エゴイストという自覚を持って生きていくということは、現代において足りていない概念の一つだと考えた。

 

 エゴイストとして生きることで、周りの環境を受け入れ人として成熟することで、他者に対する愛が生まれるのだと思った。

自分のエゴを自覚するだけで生きる世界が変わり、人を愛し幸せにできるのは素晴らしいことだと思いませんか?

 

 

 

あとがき

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

原稿用紙10枚以内という規定があり、かなり行間を消していたため、理解しにくい部分もあったかと思います。

 

いや、逆によく読めますね・・・。

私は恥ずかしくて4,5行くらいしか読めませんでした・・・。

 

とにかく最後の疑問系で終わっている文章が気持ち悪すぎて虫ずが走るし、何でこんな意味の分からない文章で終わらせたんでしょうか・・・。

 

 

 この当時、私は青春を謳歌している周りの友人にとにかく辟易としていました。

 

毎日学校に通って友人と中身の無い会話を交わし、誰かの彼女・彼氏がどうだ、色んな噂話や悪口を聞いていくのが青春だというなら、

これは何か間違っているのではないかと思っていました。

 

この世界がいかに不条理の塊であり、醜い気持ちが押し込められた人間が支配しているなんて、何て気持ちが悪いことなのだろうかと考えていました。

 (変な思考を持っていたなと思うし痛々しいけど、今でも少しこういう気持ちが残っているのも事実・・・)

 

 

 そこで課題として読まされた、夏目漱石の『こころ』という作品に初めて出会いました。

 

読んだとき、やはり自分の中にある人間は汚い生き物だということは間違っていないんだと確信に変わりました。(それはそれで捉え方を間違えているが・・・名作に本当に申し訳ない・・・)

 

私は人間がいかに汚く醜い生き物であり、何故このような生き物がこの狂った世界を支配しているのかということについて、自分の中の気持ちを文章にまとめてぶつけようと思いました。

 

結局書いていく内に少しずつ厭世的な気持ちが整理されていって、よく分からない結末になっています。

 

この文章をそのまま国語教師に提出したことが最も恐ろしいですが・・・

 

 

 ちなみに今回公開した文章は『読書感想文ではない』と、突き返され書き直しを命じられたため、もう1本原稿がありました・・・先生に嫌われていたんですかね・・・

 

こっちはいかにもな文章が書かれていて、大人から求められている物を作っていく辺り、まだ少しは子供だったんだなと思いました。

 

このブログを読んで『こころ』の読書感想文を書こうとしている方には、くれぐれもこういう厭世的なよく分からない文章を書かない方が良いと忠告しておきます。

コピペして提出して先生に呼び出されたりしても、私は一切の責任を取りません。

 

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↑書き直させられて提出した原稿。何故か物持ちが良い。というか物が捨てられないゴミ屋敷なだけ。

 

 

 今、この文章を読んでみて、確かに恥ずかしい文章だと思うけど、こういう考え方もあるよなとも思ってしまいます。

 

こういう風に厭世的なものの見方をして生きていくのも、人それぞれの一つの生き方として認められると思うけど、

僕は今ではもっと楽しく生きやすくなるような物の見方があると思っています。

 

他者に対する見方、人との接し方、物の見方は人それぞれ違い、それが悲観的であったり否定的であるかもしれない。

それは自分の信条であり覆ることがないかもしれない。

そうした生き方は誰からも間違っているとか正しくないとか言われる筋合いはない。

 

 

 この生き方に対して確実に言えることは、この思考を続けていくことで自分の価値を貶めて後退を促し、道の端っこを下を向いて歩くことになってしまうということです。

 

そうして生きてきた1,2年間が僕にもあって、今思い返せば良い経験であったかもしれませんが、

この期間、偏屈な物の見方をすればするほど自己肯定感や自尊心が失われていく自覚が確かにありました。

 

 

 肩をすくめて力を入れて卑下して生きていくよりも、もっと楽な生き方があるのではないかと思って、

今回はこの『偏屈な物の見方』をここに捨てて、自分と人間のこころを新しく見つめ直していこうと思います。

 

 

 

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